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現代アートについて
現代アートはある日突然空から降ってきたわけではありません。ギリシャ・ローマから続く西洋美術の伝統の延長線上にあります。19世紀のモダンアートの文脈から日本の現代アートにフォーカスして勉強していきます。
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サークルに参加する- 2024/09/15 15:51【デュシャンの便器】
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20世紀のアートシーンに決定的な影響を与えたマルセル・デュシャン(仏・1887〜1968)は、1917年ニューヨークのアンデパンダン展に、「R.Mutt」のサインがはいった男性小用便器「泉」を出品したが、無審査であるにもかかわらず展示を拒否された。当時の美術評論は、グリーンバーグが主張する「絵画の絵画性とは何か」「彫刻の彫刻性とは何か」をテーマとしていた。絵画や彫刻は芸術であるとの前提での探求である。いわば、“人類”の中の“人種”を探求した。しかし、デュシャンは“人類か“、“人類ではないか“=“芸術”か芸術ではないか”を提示した。キュビスムが世界の芸術を席巻していた時代に「芸術とは一体何なのか?」を問うたのである。デュシャンの試みは、第二次大戦後のアートシーンに復活する。
写真は、デュシャン「泉」1917 オリジナルは行方不明、デュシャン「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも(通称「大ガラス」)」1915―1923 - 2024/09/15 16:34【イズムからアートへ】
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20世紀初頭フォービズム、表現主義、キュビスム、シュルレアリスムなどの「イズム(主義)」はいずれも芸術の枠の中での運動でした。第二次大戦後のポップアート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アートなどの新しい試みは、新しい別の「芸術(アート)」を生み出すものとして登場した。デュシャンが提示したように、「芸術のあり方」「芸術とは何なのか」を問題にしている。現代アートは、まさに戦後の「イズムからアートへ」の流れに存在する。
写真は、マルセル・デュシャンとデュシャン「L.H.O.O.Q.」1919 モナ・リザにひげを描いた 「L.H.O.O.Q.」をフランス語で発音すると「彼女はお尻が熱い」になり「性的に興奮した女性」を意味する - 2024/09/15 23:19【ポップアートの誕生】
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1950年代は、パリのアンフォルメル、ニューヨークのアクションペインティングに代表される抽象表現主義の時代です。抽象表現主義は、情熱を激しい筆触や強烈な色彩に作家の個性が表れている抽象的な表現主義です。具体的なモチーフを拒否し、無限の拡がりを暗示する神秘的な非日常性を感じます。
戦後のイギリスでは、アメリカから大量生産された商品が押し寄せました。この日常的現実を芸術の世界に持ち込んだのが、ブリティッシュ・ポップアートです。抽象的で非日常的で作家性がある抽象表現主義に対して、日常的現実への復帰と大量生産大量消費社会の没個性のイメージをオブジェ化(「もの」に変える)したのがポップアートです。POPは、パンと音を出して弾けるという意味からpopularの短縮語にかけて若者の趣味的文化を表す。ロンドン生まれのリチャード・ハミルトンは「ポップアートとは、ウケがよく、一時的で、使い捨ての、低予算で、大量生産された、若者向けで、気が利いていて、セクシーで、いかさまありの、グラマラスな、金もうけ」だと定義した。ブリティッシュ・ポップアートは、アメリカに飛び火して、メディアを媒介して、瞬く間に世界的なムーブメントになりました。リキテンスタインのドットやウォーホルのシルクスクリーンなど印刷複製技術を意識した制作方法によって、抽象表現主義に続く絵画様式となった。
写真は、リチャード・ハミルトン「一体何が今日の家庭をこれほどに変え魅力あるものにしているのか」1956、アンディ・ウォーホル「マリリン」1967 - 2024/09/16 00:19【日本のポップアート】 アメリカで爆発したポップアートは、瞬く間に日本を席巻する。日本のポップアートを牽引したのは、横尾忠則(1936〜)、田名網敬一(1936〜2024)、タイガー立石(1941〜1998)。横尾忠則は1980年に「画家宣言」をおこない新表現主義的な画家に転身した。2024年に逝去した田名網は死ぬまでポップアーティストだった。タイガー立石は、漫画家としての顔もある。 写真は、左、横尾忠則「腰巻きお仙」1966 唐十郎の状況劇場ポスター 三島由紀夫は、横尾の絵に、見世物小屋の土俗性とアメリカンポップアートの類縁性を見抜いている。右、タイガー立石、田名網敬一
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1960年代、アメリカに登場。ミニマル・アートは、形態や色彩を最小限(ミニマル)に切り詰め、幾何学的構造や同一単位の反復など還元主義的な傾向を示すアート。音楽のミニマル・ミュージックもフレーズを繰り返す様式。ミニマル・アートは、ロシア構成主義が発端とも云われる。ミニマル・アートは、観客が「何だこれは?」と作品を見回す、観客の参加とその展示空間を前提にしており「演劇性」があると言われます。
作品と観客、作品と展示空間の二元性を解決しようと生まれたのが、ランド・アート。大地、海など自然に展開するアート。大地そのものをアートにするため、ミニマル・アートの二元性を解消する。
写真は、左、ドナルド・ジャット「Sem tÍtulo」1968、右、ロバート・ライアン「Concert 1」1986 - 2024/09/16 01:50【コンセプチュアル・アート】
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ジョセフ・コスース(米・1945〜)は、「芸術の唯一の要求は芸術のためのものである。芸術とは芸術の定義である」と語っています。芸術の自己言及性ですね。コンセプチュアル・アートは、芸術=概念であり、その観念性が重要というわけです。デュシャンが示した便器「泉」の芸術か、芸術ではないか?を祖にしていますね。
コンセプチュアル・アートを代表する作品に、ジョセフ・コスースの「一つと三つの椅子」1965という作品があります。①実際の折り畳み椅子、②その椅子の原寸大写真、③辞書の椅子の説明文が並んでいる。①は、知覚の対象としての椅子(指示記号)と概念としての折り畳み椅子(概念表象)見たままと概念を生じる②は、指示記号の代用物、③は、概念表象の代用物となり、観客に折り畳み椅子の意味について、現実と観念を行き来させる。
河原温(かわらおん・日・1932〜2014)ニューヨークに定住していた河原温は、1966年に始まる「TODAY」シリーズで、厳密なルールで均一なキャンバスに、制作の日付だけを描く。絵画形式でありながら、意味を極限まで削ぎ落とした記号を用いた最も早い作品。
写真は、上、ジョセフ・コスース「一つと三つの椅子」1965、下、河原温「TODAY」1966〜 - 2024/09/17 21:41【グラフィック・アート】
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1980年代から世界の音楽シーンを席巻したラップミュージック。1970年代NYの黒人のブロック・パーティーから発祥したヒップホップカルチャーは、MC(ラップ・言葉)、DJ(音楽)、ブレイキン(ダンス・身体表現)、グラフィティ(視覚表現)の4っの要素で構成されている。グラフィティは、建造物の外壁や鉄道車両への落書きから始まった。美術史の文脈では、リズミカルな躍動はジャクソン・ポロックに、外壁へのメッセージはメキシコ壁画運動、さらに壁に描くのは先史時代の洞窟画に遡る。代表的アーティストは、キース・ヘリング(米・1958〜1990)エイズで死亡、ジャン=ミッシェル・バスキア(米・1960〜1988)薬物過剰摂取で死亡、バンクシー(英・?)
バスキアは、グラフィティから新表現主義・ニュー・ペインティングの画家に転身した。
写真は、左、キース・ヘリングとグラフィティ、右上、バスキアとグラフィティ、右下、バンクシー - 2024/09/19 08:51【新表現主義・ニュー・ペインティング】
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1970年代のアートシーンを支配したのは、ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートでした。それは、芸術家の感情や経験を排し、極めて理知的で概念的な表象を鑑賞者に強いる禁欲的で権威主義的美術という一面もあった。これに対抗するように、マティスの感情を表す色彩表現や荒々しい筆触を特徴とするフォービズムや経験や感情を鑑賞者に伝播させようとした、ゴッホを祖とする表現主義の具象絵画が登場した。フランシス・ベーコンの戦後具象に連なる具象絵画の復権でもある。
この動きは、イギリスではニュー・ペインティング、ドイツでは新表現主義と呼ばれた。
代表的作家は、ジュリアン・シュナーベル(米・1951〜)、ジャン=ミッシェル・バスキア(米・1960〜1988)、ゲルハルト・リヒター(独・1932〜)
写真は、左、シュナーベル「法悦の聖フランチェスカ」、右上、バスキア「無題」1984、右下、リヒター「エラ」2007 - 2024/09/19 15:15【日本のニューウェーブ・ペインティング】
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具象の復活、色彩の再来、荒々しい筆触、派手なコラージュなど1980年代初頭、欧米のニュー・ペインティング、新表現主義の流れは、たちまち日本のアートシーンにニューウェーブをもたらした。背景には、70年代後半からセゾングループなど企業主導のアート発信による消費社会があった。
多種多様なアートと素材をゴチャ混ぜにして様々なジャンルで製作する大竹伸朗、広告とダンボール絵画の日比野克彦、舟越桂の具象彫刻、名画に自身を潜り込ませる森村泰昌、画家宣言を行った横尾忠則など、日本のニューウェーブは、戦後の冷戦体制の「大きな物語」から、個人的で、多元的な、価値観が多様化するポストモダニズムといえる。
写真は、上、大竹伸朗「スクラップブック」、下、森村泰昌「肖像(ゴッホ)」1985 - 2024/09/20 03:42【ネオポップ/シミュレーショニズム】
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1980年代、NY で近代芸術の唯一性(アウラ)に反対し、大衆芸術のイメージを「流用」や「コピー」して、オリジナルの芸術を超えようとするシミュレーショニズム運動が起こった。ハウス・ミュージックの「カットアップ」「サンプリング」「リミック」という手法を美術に応用した。
1990年代、日本のマンガ、アニメなどのオタク文化をアートに文脈化し、市場化する、日本発のネオポップが登場する。80年代にヒップホップ文化からグラフィティをアートに文脈化、市場化した方法論に依っている。村上隆の「スーパーフラット」概念が有名。
マンガ、アニメを核にしたオタク文化は、アニソン、AKB路線(音楽)、コスプレ、ゲーム(身体性)などに敷衍し、世界中に浸透している。ジャパニーズアニメ、ゲームの世界的流行、宮崎駿・ジブリ作品の国際映画祭での受賞、ボカロの発明による「初音ミク」、YOASOBIのビルボード制覇など現在進行形である。
ネオポップは、日本の現代のあらゆるアーティストに影響をあたえているが、村上隆、中原浩大、奈良美智、太郎千恵蔵、中村政人、森万里子など、大竹伸朗、草間彌生もネオポップに括られることもある。
写真は、村上隆「727」1996、森万里子「Birth of aStar.1995」 - 2024/09/23 14:21【J回帰/日本美術の文脈に連なる】
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1990年代、欧米のポスト・モダニズムを志向評論家たちが、日本を論じ始めた。一方は、ネオポップ、スーパーフラットであり、もう一方は日本美術の歴史、文脈に連なる現代アートである。哲学者の浅田彰は、「J回帰」といい、美術評論家の椹木野衣は、「日本・現代・美術」を発表した。
代表例として、会田誠の「紐育空爆之図(戦争画RETURNS)」は、洛中洛外図の構成をベースにニューヨークを空爆する零戦を描く。絵巻の火炎表現、加山又造の千羽鶴、川端龍子の零戦など複雑な引用で時間と空間を行き来する。山口晃も、洛中洛外図の構成をベースにしながら過去と現在が交差する都市図を精緻な線描で描く。杉本博司は、京都の蓮華王院・三十三間堂の千体観音菩薩を自然光で撮影した写真、ランド・スケープ江之浦測候所で知られる。松井冬子の「浄相の持続」は現代に蘇る九相図である。
写真は、上、会田誠「紐育空爆之図」1996、中左、杉本博司「仏の海001」、中右、山口晃「島尽鐵道圖」2017、下、松井冬子「浄相の持続」2004 - 2024/10/03 22:39【現代アートの見方】
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現代アートは、平面、立体、映像、パフォーマンス、インスタレーションなどあらゆる媒体またはその組み合わせで作品が制作される。作品に込められたコンセプトを重視するアートであるため、鑑賞者は作品の情報から想像力を巡らせ、作品を自分なりに解釈する必要がある。
Fonvaine 噴水/泉 1917年で、現代アートの嚆矢となった、マルセル・デュシャンは、現代アートの見方について次のように語っている。これは、現在でも現在アート鑑賞の基本になっています。
①アートの価値基準は、「外見」ではなく作品に込められた「コンセプト」②アーティストはモノを「選び」、それにコンセプトを込めて「命名し」、鑑賞者に示すだけでだれでも出来る。③鑑賞者は、自らの想像力を駆使して、作品を自由に解釈する必要がある。
ここで注意しなけれはならないのは、アーティストがどんなモノを選び(制作し)、そのコンセプトはどういう文脈(背景、歴史)で、命名(題名する)したかを理解することです。その上で、鑑賞者はアーティストの無意識まで想像力を働かせ、対象を共創する心構えが必要となります。自由な解釈とはアーティストのコンセプトを離れた、自分勝手な解釈ではないはずです。
写真は、デュシャンの“遺作” 「1.水の落下、2.照明用ガスが与えられたとせよ」1944-1966
《遺作》が展示されている部屋に入ると、壁にアーチ状の古い木の扉が設置されている。扉の左側には小さな窓があるが塞がれていてのぞけない。しかし扉の目の高さぐらいに小さな2つの穴があり、穴を覗くと作品が見える。扉の先に見えるのは、まず第一に、裂け目の走る煉瓦の壁、そしてその裂け目を通して、ひろびろと開けた空間。そしてかなり離れた向こう側に顔を隠された「裸の少女」がひとり、薪のようなものの上に体を伸ばし、両脚を広げて寝そべっている。裸の少女の手には小さなガスランプが握られている。
裸の少女の後方には、木の生い茂る山並み、緑と赤みがかった色、下へくだると、小さな湖、その湖にかすかにかかる霞、そして滝が見える。
なお、鑑賞者の視覚からは見えないようになっているが、床はチェスボードの模様になっている。 - 2024/10/04 22:37【世界で評価される日本現代美術】
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明治から戦前までの美術家で世界的な評価を受けたのは、藤田嗣治(1886〜1968)ただ一人と言っていい。岡本太郎も国際的評価はゼロと言われています。
戦後ながらく美術の世界では、ひたすら欧米の後を追う時代が続いた。経済では、1979年にアメリカから『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が上梓、日本は世界2位の経済大国になっていたが、文化、芸術は欧米のものが輸入され、日本はそれを消化するのみだった。
東西2陣営による冷戦構造は、1989年12月の米ソ首脳会談で終結するが、アメリカ発のインターネット革命を土台にグローバリゼーションという、新たな「大きな物語」が始まった。
グローバリゼーションの時代から、世界で評価された日本人アーティストを見てみる。
1950年代から渡米し、ミニマリズム、ポップアートアート、ハプニングという時代の潮流を泳いできた草間彌生は、1989年のニューヨーク国際現代美術センターの回顧展で国際的な評価を受け、以後アメリカ各地で大規模な回顧展が開かれた。現在では、世界を代表する現代美術家となっている。
奈良美智は、1988年に渡独し、デュッセルドルフ美術大学で学び作品を制作してきた。1994年から日本に活動拠点を移し、作品を発表。1999年頃、ニューヨーク近代美術館、ロサンゼルス現代美術館に作品が所蔵され、アメリカをはじめ世界で高い評価を受けている。 - 2024/10/04 22:39【世界で評価される日本現代美術】つづき
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村上隆は、1996年ヒロポンファクトリー(現カイカイキキ)を設立し、日本のオタク文化と美術を融合させた『スーパーフラット』をコンセプトに作品を発表。
2000年、渋谷パルコで「スーパーフラット展」をキュレーション。2001年、ミネアポリス、シアトルで「SUPERFLAT」展を開催。
2002年、サザビーズで等身大フィギュアが高額落札、ルイ・ヴィトンとのコラボレーション企画。2006年『芸術起業論』を上梓。2010年、ヴェルサイユ宮殿で作品展を開催。国際的評価を得ている。
白髪一雄は、没後に国際的評価が一気に高まったアーティスト。足で絵画を描くアクション・ペインティング「フット・ペインティング」を開発した。1955年に、前年、吉原治良を中心に結成された「具体美術協会」に参加。2013年、ニューヨークグッゲンハイム美術館で開催された、具体美術協会の回顧展「具体∶素晴らしい遊び場」で注目された。2018年サザビーズのオークションで「激動する赤」が11億3千万円で落札された。スターバックスのCEOハワード・シュルツが作品をコレクションしたことでも話題を呼んだ。
次回は、世界的評価を受けた日本現代美術家の代表として、草間彌生、奈良美智、村上隆、白髪一雄の4人の作品と経歴を調べる。 - 2024/10/06 20:02【Artist別オークション実績額2023】
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出典∶ArtPrice、2023.1~12の実績ベース。村上隆氏のみ2022.7~23.6のものを引用。単位:百万ドル
1位から20位までに、日本人が2人。8位の草間彌生と20位の奈良美智。20位までの生存作家は5名。4位ゲルハルト・リヒター(1932〜)、8位草間彌生(1929〜)、11位エド・ルシェ(1937〜)、17 位デイビッド・ホックニー(1937〜)、20位奈良美智(1959〜)。
草間彌生が最年長で、奈良美智が最も若い。
ベスト10は、1位ピカソで600百万弗、ダントツ、2位バスキア230百万弗、3位張大千(中国)、4位ゲルハルト・リヒター、5位ウォーホル、6位クロード・モネ、7位ルネ・マグリット、8位草間彌生、9位グスタフ・クリムト、10位斉白石(中国)となっている。
ピカソの人気の高さ、2人がベスト10入りしている中国バワーが目立つ。
それにしても、草間彌生の人気の高さに驚く。生存作家最年少の奈良美智の20位もりっぱです。
彼らが、世界のアートシーンでどのように評価されてきたのかを考察する。 - 2024/10/06 23:22【草間彌生(1929〜)】
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・1929年、長野県松本市の裕福な家庭に生まれる。奔放な父親と厳格な母親との確執のなか、幼い頃から幻覚、幻聴を体験する。小学校の壁に「増殖する白いブツブツ」の「常同反復」を幻視したという。抑圧から逃れるため毎日大量の絵を描いた。10歳で描いたデッサンには水玉模様が描かれていた。
・1948年、画家になることに反対する母親から逃れるように、京都市立美術工芸学校4年に編入日本画を学び翌年卒業する。
・1952年、精神科医西丸四方、精神科医式場隆三郎、美術評論家瀧口修造の知遇を得る。瀧口がNYの国際水彩画ビエンナーレに草間を推薦する。
・1957年、渡米。シアトルて個展。58年NYに移住。プラダ画廊で開いた個展(「無限の網」シリーズ)に、ミニマル・アートのドナルド・ジャットが好意的批評を書いた。
・1962年、ボックス・アートの先駆者、ジョセフ・コーネル1903〜1972(川村記念美術館に作品多し)のパートナーとなる(草間より26歳年上)。男性器を象徴するソフト・スカルプチャーを制作する。
・1966年、ヴェネツィアビエンナーレにゲリラ参加。ミラーボールの屋外インスタレーション。全裸ハプニングを敢行。
・1972年、パートナーのジョセフ・コーネルが死去。草間は心身ともに疲弊し、「死の影」に取り憑かれる。
・1975年、東京に活動拠点を移し、精神病院に入院しながら近くにスタジオを構え活動する。精神科医西丸四方は草間を「総合失調症」と診断。
78年「マンハッタン自殺未遂常習犯を刊行。
・1983年、小説『クリストファー男娼窟』で第10回野性時代新人文学賞を受賞。
・1987年、北九州市立美術館で大規模回顧展。日本での評価を確立。
・1989年、NY近代美術センターで大規模回顧展。再び国際的な評価を得る。93年ヴェネツィアビエンナーレに日本代表として参加。
・1998〜99年、LAカウンティ・ミュージアム、NY MoMA、ウォーカー・アートセンターとアメリカ各地で大規模な回顧展を巡回。アメリカでの評価を確立した。
・2012年、ルイ・ヴィトンとのコラボレーション「ルイ・ヴィトン ヤヨイ・クサマ コレクション」を発表。
・2016年、文化勲章を受章。女性画家では4人目。
写真は、左上「水玉による自己消滅」1968 左下「アキュミレーション - 2024/10/09 17:45【奈良美智(1959〜)】その1
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生まれは青森県弘前市。年の離れた三人兄弟の末っ子で、両親は共稼ぎのため鍵っ子として育つ。一人で絵を描いたり、漫画を読んだり、空想にふけったりして過ごす少年時代。高校時代に音楽に目覚め、仲間と作ったロック喫茶を根城にする。なんとなく画家になろうと、1979年に武蔵野美術大学に入学するが、1年の終わりにヨーロッパ放浪の旅に出る(美大の授業料を使い込む)。81年に武蔵美を授業料が払えず中退。真剣に画家の道を目指そうとバイトでお金を貯め、同年、授業料が安い愛知県立芸術大学の美術学部美術科(油画専攻)に入り、大学院修士課程まで修了。(以上、奈良美智自身の回想記事による)
1988年にドイツへ渡り、国立デュッセルドルフ芸術アカデミーに在籍。文学士にあたる「マイスターシュウラー」を取得し、1994年~2000年まではケルン近郊のアトリエで制作活動。『Mumps』など独特な「女の子」を描く。
この頃、ドイツ在住でデュッセルドルフ芸術アカデミーの先輩、西川勝人について、
『川村記念美術館に西川勝人展を観に行って来た。
西川さんは僕より10歳上で、もうドイツに50年住んでいる。僕が初めてドイツのギャラリーから個展のオファーを受けた90年代の中頃、嬉しくて自転車走らせて報告しに行ったら「観てる人はちゃんと観てるんだよ」と言ってくれたこと、ずっと心に残っている』
と、2024.10.5の『X』に投稿している。
写真は、左上「続いてゆく道」1990、右上「The Girl with the knife in Her Hand」1991、左下「Knife Behind Back」2000、右下「あおもり犬」2006 - 2024/10/09 17:47【奈良美智(1959〜)】その2
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2000年ドイツより帰国。同年シカゴ現代美術館、サンタモニカ美術館で個展開催。国際的評価を確立する。
2001年、横浜市美術館を皮切りに日本初の大規模個展「I DON'T MIND,IF YOU FORGET ME」を国内5ヶ所で開催。
その後も、国際展への出展、別ジャンルのアーティストとコラボなど幅広い活動を展開。
2010年には、アメリカ文化に貢献した外国出身者に与えられる『ニューヨーク国際センター賞』をヨー・ヨー・マに次ぐアジア人として受賞。同年、NYアジアソサイティ美術館の個展は、同館過去最大の入場者数を記録した。2019年サザビーズのオークションで『Knife Behind Back』2000が、2,500万ドル(約25 億円)で落札され、草間彌生の記録を抜いた。
奈良美智の作品は、大きな頭と鋭い目の印象的な少女など、無垢で無邪気な中に、どこか悪魔的な要素がある人物や、動物を描くのが特徴。1990年代半ば以降、新たな具象絵画の旗手として国際的な注目が集まっている。
写真は、左上「続いてゆく道」1990、右上「The Girl with the knife in Her Hand」1991、左下「Knife Behind Back」2000、右下「あおもり犬」2006 - 2024/10/13 16:56【村上隆(1962〜)】
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生来のアニメ好きが高じて、高校卒業後にはアニメーターを志した。尊敬しているアニメ監督は宮崎駿で、アニメーションの仕事に就きたいと思っていた。しかしながら挫折し、同じく以前から興味のあった日本画を習い、2浪の後に東京芸術大学に入学した。同大学では美術学部日本画科に学び、1986年(昭和61年)の卒業時には『横を向いた自画像』(東京芸大美術館所蔵)を製作・提出。
1988年(昭和63年)に東京芸術大学大学院修士課程の修了制作が、首席とならず次席であったために、日本画家への道を断念する。
1991年(平成3年)には、個展 『TAKASHI, TAMIYA』を開催、現代美術家としてデビューした。同年、ワシントン条約で取引規制された動物の皮革で作ったランドセルを展示する「ランドセル・プロジェクト」を展開する。
1993年(平成5年)、東京芸術大学大学院の美術研究科博士後期課程を修了。同大学日本画科で初めての博士号取得者となった。
1994年(平成6年)にはロックフェラー財団のACCグラントを得て、「PS1.ART PROJECT」の招待を受けニューヨークに滞在した。
1998年(平成10年)にカリフォルニア大学ロサンゼルス校美術建築学部客員教授。2001年(平成13年)にアメリカロサンゼルスで、展覧会『SUPER FLAT』展が開催され全米で話題となる
2001年(平成13年)アート制作・映像制作や所属アーティストマネージメントなどを企画・運営・販売等、芸術事業の総合商社「有限会社カイカイキキ」を起業する。また、事業部としてアニメーションスタジオ「STUDIO PONCOTAN(スタジオ ポンコタン)」を立ち上げる。
2005年 ニューヨークにて個展「リトルボーイ展」開催
2006年 ニューヨークの美術館開催の最優秀テーマ展覧会賞受賞 / 芸術選奨文部科学大臣新人賞受賞
2007年 カニエ・ウエストのアルバム「グラジュエイション」ジャケットデザイン担当
2008年 米Time誌「世界で最も影響力のある100人-2008年度版」に選ばれる / GQ MEN OF THE YEAR 2008受賞。引用元∶ウィキペディア
写真は、「727」2004「TanTanBo」1962「赤竜赤変図」2010「五百羅漢図」2012 - 2024/10/16 17:37【白髪一雄(1924〜2008)】
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白髪一雄と具体美術協会について
吉原治良は、大阪の油問屋(吉原製油、現Jオイルミルズ)の御曹司として生まれ、社長業と芸術家の顔を持っていました。
関西学院高等商業部を卒業し、渡仏後の1928年に初個展を開き公募展などにシュルレアリスム風の絵画を出展した。
敬愛する藤田嗣治に作品を見てもらう機会を得るが独自性のなさを指摘される。幾何学的な抽象絵画へ転換し、戦後は、不定形の形を激しい筆致で描く抽象画を描いた。
1954年、吉原治良(1905〜1972)によって15人のメンバーで「具体美術協会」が結成された。翌年、白髪一雄が参加する。
東京の小原会館などで大規模な「具体展」を開き、フランスのミシェル・タピエに注目される。吉原、具体美術協会は、「人の真似をするな」を標語にストレートな物質性をアピールした。
アメリカのアクション・ペインティング、フランスのアンフォルメル、日本の具体は、同時期に発生した抽象表現主義的傾向の美術運動である。
白髪一雄は、1924年、兵庫県尼崎市の生まれ。生家は呉服商だった。京都市絵画専門学校日本画科を卒業後油絵に転向、大阪市立美術研究所に学ぶ。1954年に具体美術協会に参加し、宙吊りになって足で絵画を描く「フット・ペインティング」を生み出す。具体のメンバー、嶋本昭三の「大砲絵画」「瓶投げ絵画」と同じく、「行為の軌跡」を作品にしたアクション・ペインティングである。
白髪一雄は、天台密教への関心が高まり、1971年比叡山延暦寺で得度し、天台宗の僧侶となる。得度後も作品制作は続けられ、宗教的テーマの作品が作られた。
2013年のニューヨークグッゲンハイム美術館での具体美術協会回顧展「具体∶素晴らしき遊び場」で具体が再評価され、特に白髪一雄の作品が注目された。
2014年パリのオークションで「激動する赤」1969が54,000万円、2018年パリのオークションでは、「高尾」1959が113,000万円で落札された。白髪一雄の作品は、現在も高い人気を誇る。
写真は、上 「激動する赤」1969、下 「高尾」1959
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