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美人画の系譜
美人画とは、女性の容姿や内面の美しさ、いわゆる女性美をモチーフにした絵画です。明治以降の美人画は、江戸時代の風俗画や浮世絵の美人画を受け継ぐ、明治時代の歴史画のモチーフとして誕生した後、日本画の一つのジャンルとして成立しました。
美人画の系譜をたどる事で日本画の変遷を確認します。
浮世絵の美人画と明治以降の美人画の違いは、画家とモデルの関係にあります。浮世絵では、作品とモデルの顔立ち、姿格好が似ているかどうかは重要視されず、どの浮世絵師の「型」にハマっているかが重要で、春信美人、歌麿美人、清長美人などの「型」が重視されます。明治以降の美人画は、西洋画の影響でモデルを忠実に描くあるいは理想的に描く事が重視されます。
画家の経歴、絵画の解説はAIを利用、ウェキペディア等を参照しています。
美人画の系譜をたどる事で日本画の変遷を確認します。
浮世絵の美人画と明治以降の美人画の違いは、画家とモデルの関係にあります。浮世絵では、作品とモデルの顔立ち、姿格好が似ているかどうかは重要視されず、どの浮世絵師の「型」にハマっているかが重要で、春信美人、歌麿美人、清長美人などの「型」が重視されます。明治以降の美人画は、西洋画の影響でモデルを忠実に描くあるいは理想的に描く事が重視されます。
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サークルに参加する- 2026/01/05 15:53伊藤晴雨(1882―1961) 東京浅草生まれ
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《伊藤晴雨 秘画画集より》
父親は旗本橋本大炊頭の子で、没落し彫金師を生業としていた。母親は丹南藩の元家老の娘・とら。その長男として生まれる。幼い頃から絵が得意であったため8歳で琳派の絵師・野沢提雨に弟子入りする。9歳の段階で芝居の折檻シーンや女の髪の匂いに執着する性癖が発現している。
25歳から新聞社に勤め挿絵や評論を書く。この頃挿絵画家としての地位が固まり、多くの執筆依頼が寄せられるも収入のほとんどは遊びに費やしていた。
34歳で佐々木カネヨ(お葉)をモデルに責め絵を描く。[洋画家藤島武二のモデルを初めたお葉は、12歳で晴雨のモデル兼愛人になるが出奔、その後に竹久夢二の愛人になっている。『黒船屋』のモデルはお葉。夢二と別れたお葉は、再び藤島武二のモデルとなり名作「芳蕙」を生む。]
37歳で最初の妻・竹尾と離婚、二人目の妻・キセ子をめとる。この女性は晴雨の責め絵のモデルにもなっており、妊娠中に吊り責めを受けるなどしていた。だが、13歳若いこの女性は後に浮気をして晴雨のもとを去る。晴雨が49歳の頃に三人目の妻が精神を病み闘病、借金に追われるようになる。
西洋の「鞭」のSMに対して、日本の「縄」緊縛のSMの嚆矢となった伊藤晴雨の責め絵は、裏の美人画といえる。
《伊藤晴雨 秘画画集より》郭で見せしめに折檻される花魁の緊縛図は、確かな絵画技術をみせながら、婆さんと子どもも登場させ、屈辱の表情を表す。 - 2026/01/05 16:16竹久夢二(1884―1934) 岡山県瀬戸内市生まれ
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《黒船屋》大正8(1919)年
数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれた。大正ロマンを代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、中でも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けの一人ともいえる。
代々造り酒屋を営む家に生まれる。造り酒屋が廃業となり、北九州に転居。17歳で出奔し東京へ。風刺画、挿絵で生計をたてる。数々の女性遍歴があり、35歳の時、伊藤晴雨から逃れた、佐々木カネヨ(お葉)と出会う。
《黒船屋》大正8(1919)年
お葉をモデルにした、夢二の代表作。浮世絵の抒情性と西洋近代絵画の斬新さを融合させ、夢二独自の「夢二式美人画」を確立しました。 - 2026/01/05 16:43藤島 武二(1867―1943)鹿児島市生まれ
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《芳蕙》大正15(1926)年
明治末から昭和期にかけて活躍した洋画家である。明治から昭和前半まで、日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重鎮でもある。ロマン主義的な作風の作品を多く残している。
藤島武二は、鹿児島で四条派の日本画家に学び、洋画修行を志して上京後も、四条派の川端玉章に師事している。その後、山本芳翠ら洋画家の指導を受け、東京美術学校西洋画科の教授になっている。
《芳蕙》大正15(1926)年
東京美術学校でモデルをしていた佐々木カネヨは、最初に藤島武二に見出される。伊藤晴雨、竹久夢二と事実上の結婚をしていたカネヨは、再び藤島武二のモデルとなり《芳蕙》を生み出した。《芳蕙》にまんそしたカネヨはモデルを辞め医者と結婚し生涯を終える。 - 2026/01/05 17:16池田蕉園(1886―1917) 東京神田生まれ
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《宴の暇》明治42 (1909)年
岸和田藩士の父はアメリカ留学、日本鉄度、岩倉鉄道学校幹事の名士だった。15歳で日本画家水野年方の画塾に入門。上村松園に憧れていたため、年方が蕉園の号を与える。その後、川合玉堂、鈴木華邨に師事する。
1903年、同門の日本画家池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪した。蕉園は悲しみのあまり、しばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれる。
「東の蕉園、西の松園」「三都三園」(上村松園、池田蕉園、島成園)と讃えられた。
《宴の暇》明治42 (1909)年
「宴の暇」は第三回文展で一等なしの三等受賞。二等は菱田春草のあの「落葉」ですから、蕉園への評価の高さが分かります。女性の受賞者は蕉園ひとりでした。宴の途中で抜け出し、拍子を軽くとりながら何やら口ずさむ芸能者の女性。着衣や身体の精密な描写も蕉園らしさで、高評価も納得の名作です。 - 2026/01/05 23:34村上華岳(1888―1939) 大阪市生まれ
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《裸婦図》大正9 (1920)年
甲州武田氏の末裔。京都市立絵画専門学校入学・卒業。大正7(1918)年絵画専門学校の同窓生と国画創作協会を設立する。(村上華岳、土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花)
《裸婦図》大正9 (1920)年
国画創作協会を設立し新様式の日本画を描いて活躍した村上華岳の作品。大正9年(1920)、第三回国画創作協会展に出品された作品で、薄物を纏った女性の姿を上品に描いている。
インドの仏教美術や西洋の宗教画なども研究した華岳による人体表現の到達点を示す作品であり、我が国大正期の日本画による裸体画の代表作である。
モナ・リザの影響もあり「東洋のモナ・リザ」とも称される。 - 2026/01/06 00:51松本華羊(1893―不詳) 東京生まれ
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父親は銀行勤務を経て、大学で銀行業務を講義する学者。
彼女は、生来の虚弱体質に加え、2歳のときに家の2階から転落して足の自由を失ったため、学齢に達しても学校には通わず、家庭教師を通じて一般教養を身につける。17歳ごろ、京都の上村松園、大阪の島成園とともに「三都三園」として知られた女性日本画家・池田蕉園に入門、「蕉蔭」を名乗って作品制作を開始する。その後「華羊」の号を名乗る。尾竹越堂、尾竹竹坡兄弟にも師事した。大正4(1915)年父親の転勤で大阪に転居。同年、島成園、岡本更園、吉岡千種、松本華羊で「女四人の会」を結成。翌年、展覧会を行う。《殉教(伴天連お春)》は大正7(1918)年頃の作品。大正11年大阪毎日新聞記者と結婚。結婚後も創作は継続する。没年は不詳。
松本華羊《殉教(伴天連お春)》は大正7(1918)年頃
ジャガタラお春を描いたものという説がありましたが、着物に「朝妻」の「朝」「妻」の字が描かれているため、朝妻を描いたと云われている。キリシタン迫害で、吉原の遊女「朝妻」は小石川の切支丹屋敷に幽閉されました。
改悛か打ち首かの二者選択を迫られた朝妻は、改悛を拒絶し、牢獄のそばの桜の木を見て、「ただ一つお願いがございます、後45日で桜の花が咲くのであれば、桜の下で死にとうございます。」と申し出ました。
その願いが叶えられ、45日後、朝妻は牢獄から満開の桜の下に据えられ、笑って刑を受けた、と伝えられています。
満開の桜の下、荒筵の上に座して手鎖をされ、憂いを含んだ瞳で桜を眺めています。着物の襟には十字架が描かれています。まるで螺鈿を施したような輝きを放つ桜の花が美しく、そして哀しく目に映ります。朝妻の姿は、足萎えの華羊その人でしょう。
島成園《春の愁い》大正5(1915)年頃
この作品も「朝妻」を描いていると言われています。ロザリオの代わりに帯締めのようなものを手に持っています。虚ろな表情で桜が散りゆく様を眺めているのが印象的です。
島成園の「春の愁い」の朝妻の表情はそのまま、松本華羊「殉教」に引き継がれているようです。
写真は左「殉教」右「春の愁い」 - 2026/01/06 13:27島成園(1892―1970)大阪府堺市生まれ
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《おんな(原題・黒髪の誇り)》大正6(1916)年
大阪の女性画家の代表的存在は、島成園である。父・兄とも画工、絵師の家庭に生まれた。15歳から見よう見まねで絵を独習し、北野恒富や野田九浦に私淑し、日本画の基礎を学んだ。20歳の若さで文展に入選。その後も入選を重ねて名声を確立した彼女は、京都の上村松園、東京の池田蕉園とならび「三都三園」と称された。また各方面から多くの制作依頼が寄せられたほか、入門志望の若い女性たちが多数自宅を訪れた。翌1913年(大正2年)にも「祭りのよそおい」で文展に入選し、1915年(大正4年)の第13回三越絵画展覧会では、作品が横山大観、竹内栖鳳、北野恒富ら有名画家のそれとともに展示され、さらに同年の第10回文展では「稽古のひま」が兄・御風の「村のわらべ」とともに入選。高い社会的知名度を得る。
1916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、他の三人とともに井原西鶴の『好色一代女』に取材した諸作を出品、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた、ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ、揶揄された。また同じ頃から北野恒富、谷崎潤一郎の弟谷崎精二、人気力士・大錦卯一郎らとの恋愛ゴシップを書き立てられるようになり、有名人としての苦悩も味わう。
《おんな(原題・黒髪の誇り)》大正6(1916)年
上半身をはだけ乳房もあらわな女性が、般若の描きこまれた着物をまとい、ただならぬものを感じさせる眼差しとともに髪を梳る、といった官能的ながらも不穏な印象を与える作品で、裸体画に厳しい批判がよせられていた時期であったこともあり、父の助言を容れて、当初よりも性的な印象を弱めた作品として仕上げたにもかかわらず、その年の再興第4回院展では落選した。なお完成時のこの作品には、画中の女性の足許に盥が描き込まれていた。
島成園は今後ますます評価されるべき作家だと思う。
傑作自画像《無題》大正7年も忘れ難い - 2026/01/06 13:52速水御舟(1894―1935) 東京浅草生まれ
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《京の舞妓》
従来の日本画にはなかった徹底した写実、細密描写からやがて代表作『炎舞』のような象徴的・装飾的表現へと進んだ。長くない生涯に多くの名作を残し、『名樹散椿』(めいじゅちりつばき)は昭和期の美術品として最初に重要文化財に指定された。1935年(昭和10年)3月20日、腸チフスにより急逝した。40歳没。
《京の舞妓》大正9(1920年)年 絹本著色、軸装、152.3×101.8cm
第7回院展に出品。舞妓の衣装の細かい文様から畳の目の一つひとつまで克明に描写した写実性が特色の作品である。発表時はその細密すぎる描写が話題となり賛否両論を招いた。横山大観はこの作品を日本画の伝統からはずれた「悪写実」と酷評し、御舟を院展から除名すべしとまで主張した。そのためか御舟はこの作品以降、人物画から長年にわたり遠ざかる。
速水御舟で有名な唯一の美人画。一時岸田劉生に傾倒していたようで、「麗子像」を思わせる作品。
この作品を観ると、坂口安吾の『日本文化私観』の舞妓を思い出す。 - 2026/01/06 14:10甲斐荘楠音(1894〜1978) 京都市生まれ
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《横櫛》大正4(1915)年
父親は、旗本甲斐荘家(東京本郷)に養子として入り、事情により京都に移り木屋町御池から河原町三条に広大な土地屋敷を入手したそうです。母親は御所士の娘でした。楠音は、江戸時代の豪放な京侍のような父と御所風の伝統を持つ母のもとで育ちました。病弱で小柄な彼は女の子のように育てられ人形遊びをするような子供だったようです。持病の喘息で学業ははかばかしくなく、京都市立美術工芸学校に入学後、京都市立絵画専門学校に進学しました。学生時代は、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ウィリアム・ブレイクに傾倒していたようです。
卒業制作として描いたのが「横櫛」(大正4年1915年)です。モデルは兄嫁の甲斐荘彦子です。卒業式の前年に二人で京都南座で観た「処女翫浮名横櫛(むすめごのみうきなのよこぐし)」に着想して、彦子をモデルに描がきました。芝居は、通称「切られ与三郎」の「与話情浮名横櫛」の書き替え芝居で「切られお富」といわれ、悪婆(あばずれで男勝り)物の傑作だそうです。粗筋は「お富が、再会した愛人で浪人の与三郎に金が必要と知り、与三郎との関係に激怒し、お富をめった切りにしたかつての旦那から、夫と共謀して金を強請(ゆすり)った、金を持ち逃げしようとした夫を殺し、与三郎の願いを叶えるが、実はお富と与三郎は生き別れた兄妹で、関係を持った罪悪に二人は自害し果てる。」
さて、「横櫛」は、牡丹図屏風の前に、女性が黄色い襦袢に墨色の着物をかけています。襦袢の襟には天女、地には龍と炎が描かれています。襦袢の黄色と対照的に女の顔は青白く、目の回りの赤みに病的で不健康な凄みを感じます。だらしない着付けに襦袢の濃厚な色彩と青白い顔、全体から引きずり込まれそうな不思議な魅力があります。
(モデルの彦子は「横櫛」完成の半年前に病没)
よく見ると、足、手は伝統的な線で描かれていますが、顔は西洋画のように色彩で表現され、モナリザのような謎の微笑みを浮かべているようでもあります。
この不思議な感じが、麦僊には「下品」と評価され、劉生には「デロリ」と名付けられた楠音の真骨頂なんでしょう。
アメーバブログより転載 - 2026/01/07 13:16榎本千花俊(1898―1976) 東京赤坂生まれ
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《池畔春興》昭和7(1932)年
鏑木清方の門人。1898年、東京赤坂に生まれる。本名は親智(ちかとし)。千花俊と号した。18歳の時、1916年から清方に師事している。
1921年に東京美術学校日本画科を卒業、翌1922年開催の第4回帝展に出品した「旅」という文楽を画題とした作品において初入選を果たした。その後は、洋装のモダン・ガールを描くことで、同時代の風俗を反映する洗練された美人画を得意とした。千花俊は後の新文展においても入選を果たし、主として官展を中心に活躍している。
千花俊のモダン・ガール絵画の元は、彼が関係していたファッション雑誌「婦人グラフ」(1924―28)にある。「婦人グラフ」はフランスの高級雑誌「A.G.B=Art.Gout.Beaute」(アール・グー・ボーテ/芸術と趣味と美)を真似た日本版と言っていい。「婦人グラフ」の表紙や口絵は竹久夢二が有名だが、同じく表紙や口絵を描いた榎本千花俊は、A.G.Bから受けた影響を自分の絵画に反映させている。彼の絵が今でも古びず、輝きを放っているのは、清方から学んだ確かな技法とアール・デコの精華のためであろう。
1973年、死去、享年、数えで76。
《池畔春興》昭和7(1932)年 絹本着色
207.3✕261cm 島根県立石見美術館
大画面に洋装、ハイヒール、髪にはパーマをかけた二人のモダン・ガール。一人は、小型撮影機を持ってロングドレスに羽織、傘をさした女性はキツネの襟巻。池畔には藤、鴛鴦、花菖蒲、鶺鴒、蒲公英と日本画のモチーフが散りばめられる。少女漫画のカラー原画のようです。 - 2026/01/07 15:05伊東深水(1898―1972) 東京深川生まれ
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《指 大正11(1922)年》
上村松園、鏑木清方とともに「三大美人画家」と称される伊東深水。歌川国芳、月岡芳年、水野年方、鏑木清方、伊東深水と続く歌川派の正統。
1911年(大正元年)13歳で鏑木清方へ入門し、深川の名にちなむ「深水」の号を与えられる。実家の没落で、昼働き、夜学(実業補習学校)に通い、夜中に絵を描くという生活だった。1916年渡辺庄三郎と出会い新版画運動に加わわる。1919年好子と結婚し、長男、次男をもうける。伊東深水が美人画家としての地位を確立したのは結婚後です。妻の好子をモデルとして描いた『指』や『湯気』の、艶やかで気品あるさまが高く評価されました。のちには美人画の依頼ばかり来るようになり、他のモチーフを描く機会を得られず深水自身が困惑するほどだったといいます。1935年(昭和10年)料亭「勝田」の女将、勝田麻起子との間に雪会(後の朝丘雪路)をもうける。1972年没。享年75。
《指 大正11(1922)年》絹本着色 169.1✕110.0cm
夏の宵、竹の長椅子に腰掛け、じっと指先を見つめる視線の先には結婚指輪。紗と思われる薄い着物から透ける素肌と赤い腰巻がエロティックです。
三年前に結婚した妻の好子をモデルにした、伊東深水の代表作。残念ながら現物ばまだ見ていません。 - 2026/01/07 16:36中村大三郎(1898―1947) 京都市上京区生まれ
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《ピアノ》大正15(1926)年
明治31年、京都市下立売小川に、染色関係の仕事をする中村安吉の長男として生まれる。また弟中村道太郎も日本画家。
明治44年、京都市立美術工芸学校絵画科に入学。大正5年)3月、同校卒業。4月、京都市立絵画専門学校に入学。在学中、第12回文展で初入選。その、第2回、第4回帝展で特選受賞。
竹内栖鳳門下の西山翠嶂に師事し、青甲社に入る。大正7年西山翠嶂の長女都由子と結婚する。妻をモデルに《ピアノ》を描く。昭和8年自身の画塾を創立。
初期の時代風俗に取材した作品から現代女性や能を題材にした作品を描くようになった。昭和22年9月14日、腹膜炎にて没。
《ピアノ》大正15(1926)年 絹本着色屏風 4曲一隻 164.5✕302.0cm
画面を大きく占める黒光りしたグランドピアノと赤い振袖の令嬢という大胆な構図。令嬢は大三郎の妻がモデル。胸高に締めた華やかな帯、ウェーブを効かした洋髪など流行の装い。スタンド楽譜など細部まで緻密に描かれている。
京都市立美術館で現物を見たが… 特段の感動は無かった。上村松園の品格ある絵画に似ている気がする。
同じく妻を描いた《指》と比べるとなんという気質の違いであろうか!? - 2026/01/08 13:20小倉遊亀(1895―2000) 滋賀県大津市生まれ
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《娘》昭和26(1951)年
学生時代に絵を描くことに目覚め、横浜の高等女学校で教鞭をとりながら、安田靫彦に師事。1926年、再興日本美術院展に初入選。32年、女性で初めて日本美術院同人に推挙される。38年、山岡鉄舟門下の小倉鉄樹と結婚。80年、文化勲章受章。2000年に105歳で亡くなるまで旺盛な制作活動を続けた。
《娘》昭和26(1951)年 紙本着色 137.0✕109.7cm
滋賀県立近代美術館
着物を粋に着こなし足を組む女性が描かれ、大胆さと繊細さを兼ね備えた小倉遊亀の個性を表していると評されます。
彼女は30歳年上の禅研究家・小倉鉄樹と結婚し、夫婦でかけがえのない時間を過ごしましたが、子供はいませんでした。
作品のモデルは、遊亀の親族や知人の娘(姪など)が務めた可能性も指摘されていますが、特定の人物がモデルというよりは、遊亀自身の理想像や内面が投影されたものと考えられています。
小倉遊亀を知ったのは、谷崎潤一郎の名作「少将滋幹の母」の挿絵、口絵でした。谷崎の流麗な文体とは逆に端麗な印象をもちました。なんか、サッパリしてます。 - 2026/01/08 14:10加山又造(1927―2004) 京都市生まれ
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《黒い薔薇の裸婦》昭和51(1976)年
加山又造は1927年京都生まれ。祖父は四條・円山派の絵師、父は西陣の染色図案家という伝統的な芸術家に囲まれた環境で育ち、東京美術大学(現東京藝術大学)を卒業。日本画家として活動をするが、その作品は伝統的な日本画の枠組みに収まらず、様々な手法を用いて革新的な作品を次々に発表した。そうした功績が高く評価され、97年に文化功労賞を受賞、2003年に文化勲章を受章。
《黒い薔薇の裸婦》昭和51(1976)年 紙本・彩色
4曲1隻屏風 175.5✕365.0cm 国立近代美術館
加山又造は、琳派などの伝統様式を現代的に再解釈することで知られます。本作では、黒いレースのカーテンのような背景に無数の黒い薔薇が配され、非常にファッショナブルでモダンな空間を作り出しています。
背景の黒いレース越しに透けて見えるような女性の肉体の美しさが強調されています。ポーズは非常に妖艶で、西洋的な裸婦像の様式と、日本画の繊細な線描が組み合わさっています。
日本画にシルクスクリーンを導入するという、当時の画壇としては斬新な手法を用いて、均質で装飾的なパターンを生み出している点が特徴です。
国立近代美術館所蔵ですが実物はまだ見ていません。
ぜひとも観たい作品ですね。 - 2026/01/09 01:55江口寿史(えぐち ひさし1956―)熊本県水俣市生まれ
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《リアルワインガイド 2014winter》表紙
漫画家、イラストレーター。1956年熊本県生まれ。1977年に「週刊少年ジャンプ」(集英社)で『すすめ!!パイレーツ』を連載。
以後、『ストップ!ひばりくん!!』『エイジ』などのコミックのほかに、「リアルワインガイド」の表紙も担当。『KING OF POP』(玄光社)、『RECORD』(河出書房新社)などの画集がある。
《リアルワインガイド 2014winter》表紙
日本のマンガがアニメになり、ゲームと融合したメディアミックスは今や世界のメインカルチャーになっている。更にadoの「うっせいわ」ボカロMVに至っては、新たなメディアミックスが美術の先を行くアートになっている。
それに比べると、江口寿史のイラストは伝統的美人画に見えてくる。彼の絵が女性にも人気なのは、男性が欲望の眼で見る「女」ではなく、江口の憧れの眼で見た倒錯的自己愛の「女」であり、ある面レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」に似ている。 - 2026/01/09 02:46会田誠(1965―) 新潟市生まれ
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《巨大フジ隊員VSキングギドラ》 1993年
1965年新潟県生。1989年東京藝術大学油画専攻卒業、99年同大学院修了。平面作品を中心に、映像や立体、マンガ、パフォーマンスなど様々なメディアによって、一貫して日本の恥部や暗部を鮮やかにえぐり出す。そのモチーフは美少女から、暴力、戦争、エログロ、ロリコンに至るまでセンセーショナルな話題に事欠かないが、 こうした露悪的な態度には、会田の半生を根底で規定していた戦後民主主義というイデオロギーに対する、悪意ある批評精神が窺える。端から欧米のアートを志向せず、日本の土着的な風土の中で美術表現を模索するという意味でいえば、じつは会田誠こそ、日本の由緒正しい伝統的なアーティストだといえる。
《巨大フジ隊員VSキングギドラ》 1993年
アセテート・フィルム、アクリル絵具、鳩目金具 310 x 410 cm
浮世絵の春画とサブカルチャーとが折衷的に組み合わされることになるだろう。そのいずれも、きわめて具体的なイメージを描く一方で、その背後にある類型あるいは記号的な表象体系(現代日本画、浮世絵、女子高生、マンガ、アニメ)を、サンプルとして摘出する。ゆえに、会田誠の絵画に現れる具体的なイメージとは、それ自体がすでに類型・記号と化した表象である。あるいはそれを美術史的な概念に従って「様式化されたもの」と呼ぶこともできるだろう。画面に描かれるのは、当の対象それ自体ではなく、その対象が所属するひとつの集合的な枠組み=様式である。そのため、会田誠が取り上げるのは、美術史的主題と世俗的主題との如何にかかわらず、すべてが一個の類型として様式化されたものなのである。彼の作品に漂うユーモラスなニュアンスのさまざまは、基本的に、複数の事象の、文脈を欠いた唐突な結合が機知を生み出すという効果によっても生み出される。
引用元∶絵画的保守主義と結合の美学──「会田誠展:天才でごめんなさい」レビュー 沢山遼(美術批評)
・浮世絵の春画とは、『蛸と海女』は、葛飾北斎による文化11 (1814) 年の艶本(春画)『喜能会之故真通』中の一場面である
・フジ隊員は、特撮テレビドラマ「ウルトラマン」に登場する地球防衛軍のフジ・アヤコ隊員
・キングギドラは「ゴジラ」に登場する最強宇宙怪獣 - 2026/01/09 03:13池永康晟(いけながやすなり1965―) 大分県津久見市生まれ
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《それのあと、愛花》2017年
自身が染め上げた麻布に岩絵具で描く美人画が特徴。竹久夢二以来の天才美人画家、現代美人画の祖、と称される。
1984年、大分県立芸術短大付属緑丘高校(現、大分県立芸術緑丘高等学校)美術科を卒業する。高校卒業後、上京して独学で日本画を描き始める。2012年、〈うつふせて泣いたるきみは未だ夏果の微匂ひ・樹子(なつこ)〉で第8回菅楯彦大賞展佳作賞一席・百花堂賞受賞。
作品の発表は2005年からと遅かったが「自分の色を見つけるために、十数年色見本を作り続けたため」と説明している。
発表当時から日本画における人物画の復興を提唱し、画集〈美人画づくし〉の監修などを通じて新人発掘に尽力し、2015年以降の現代美人画ブームを牽引した。
《それのあと、愛花》2017年 亜麻布・岩絵具・膠・墨・金銀泥 35✕25cm - 2026/01/09 11:40松井冬子(1974―) 静岡県森町生まれ
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《浄相の持続》平成16(2004)年
1994年に女子美術大学短期大学部造形学科油彩画専攻を卒業する。社会人経験ののちに4浪を経て6回目の受験で東京藝術大学美術学部へ入学し、2002年に美術学部日本画専攻を卒業する。2007年に東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程美術専攻日本画研究領域を修了し、博士論文「知覚神経としての視覚によって覚醒される痛覚の不可避」を東京芸術大学へ提出して博士(美術)を修得する。
女性、雌に焦点を当て、幽霊画、九相図、内臓、脳、筋肉、人体、動物を題材に採った作品を発表している。絹本に岩絵具を用いて描く。
《浄相の持続》平成16(2004)年
絹本着色、軸 29.5×79.3cm
財団法人平野美術館寄託
「私はこんなに立派な子宮をもっている」という攻撃的な態度は、自傷行為の原因となる防衛目的から発現した破壊的衝動である。私はこの女に対し自己投影し同一視している。また彼女の周りに咲く花々も、彼女に同調するように切断し、雌しべをみせびらかしている。私はこの作品に共感し、同調しうるであろう女性達に向けて作品を制作した。同調に関しての優れた能力は、卵をつくる、分身をつくる、という子宮を持つ者の強い特権であるからだ。引用元∶横浜美術館 松井冬子展―世界中の子と友達になれる―より本人解説
九相図(くそうず、九想図)とは、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画である。
死体の変貌の様子を見て観想することを九相観(九想観)というが、これは修行僧の悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の肉体を不浄なもの・無常なものと知るための修行である。修行僧は男性だったため、煩悩をもたらす女性の肉体とした。
松井冬子の「浄相の持続」は、不浄とされる女性の肉体を『子宮を持つ者の強い特権』=浄相の肉体であり死しても持続すると宣言している。 - 2026/01/09 11:57宮﨑優(1973―) 大阪市生まれ
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本名「呉榮子(Oh_yongja)」、作家名「宮﨑優(yu miyazaki)」
《櫛にながるる黒髪》令和5(2023)年
大阪府立港南高等学校美術科卒業。2011年に初の個展を開催。鉛筆・色鉛筆・アクリルと様々な画材で制作を続け、2015年より独学で日本画の制作を始める。2016年に画集「美人画づくし」に掲載されるなど美人画作品の発表を重ね、2018年3月に「第9回アダチUKIYOE大賞」大賞受賞。2018年10月に宮﨑優展「兆し」(ギャラリーアートもりもと)開催。無所属。
《櫛にながるる黒髪》令和5(2023)年7月
木版画 35.2×24.0 cm
繊細な描線と柔らかな色彩の美人画で、多くの人を魅了している日本画家・宮﨑優氏。現代の彫師・摺師たちと制作した木版画第一作「花ざかり」は大きな反響を呼びました。第二作「櫛にながるる黒髪」。「大正の歌麿」と呼ばれた橋口五葉へのオマージュである本作には、歴史の中で脈々と受け継がれてきた美人画の雅が息づいています。
・美人画の系譜 No.6 橋口五葉を参照ください
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