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美人画の系譜

2026/01/04 15:52
やまちゃん1
美人画とは、女性の容姿や内面の美しさ、いわゆる女性美をモチーフにした絵画です。明治以降の美人画は、江戸時代の風俗画や浮世絵の美人画を受け継ぐ、明治時代の歴史画のモチーフとして誕生した後、日本画の一つのジャンルとして成立しました。
美人画の系譜をたどる事で日本画の変遷を確認します。
浮世絵の美人画と明治以降の美人画の違いは、画家とモデルの関係にあります。浮世絵では、作品とモデルの顔立ち、姿格好が似ているかどうかは重要視されず、どの浮世絵師の「型」にハマっているかが重要で、春信美人、歌麿美人、清長美人などの「型」が重視されます。明治以降の美人画は、西洋画の影響でモデルを忠実に描くあるいは理想的に描く事が重視されます。

画家の経歴、絵画の解説はAIを利用、ウェキペディア等を参照しています。

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  • 2026/01/04 16:56
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    河鍋暁斎(1831―1889) 茨城県古河市生まれ

    《大和美人図屏風》明治17―18(1884―85)年
    初め浮世絵師歌川国芳に入門、狩野派に再入門した後、土佐派、琳派、四条派も学ぶ。

    展覧会で出会い見入った素晴らしい作品。
    右に描かれた女性は遊女で、体のしなやかな線が印象的。背景にはくねったあぜ道があり、日本的な田園風景が広がる。遊女の立ち姿は江戸時代前期の浮世絵のスタイルが踏襲され、さりげなく伝統を取り入れている。左の絵の背景には、金箔を細かい粉にして装飾するなど大和絵の技法もみられる。

    本作は、暁斎の弟子でもあった、英国のお雇い建築家、ジョサイア・コンドル(1852―1920)に贈られた作品。
  • 2026/01/04 17:48
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    渡辺省亭(1851―1918) 東京都神田うまれ

    《四季江戸名所(冬墨堤の雪)》明治時代中期

    渡辺省亭は、「前賢故実」の菊池容斎門人。花鳥画が有名だか美人画もよくする。1878年のパリ万博にも出品。印象派の画家と交流した。ドガに即興で描いた鳥の絵を贈ったエピソードもある。端正な美人画で、華やかな色彩と背景の雪景色は西洋画の影響もうかがえる。
  • 2026/01/05 02:16
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    北野恒富(1868―1947) 金沢市生まれ

    《戯れ》昭和4(1929)年

    17歳の1897年に大阪に出、翌年月岡芳年と幸野楳嶺に学んだ挿絵画家、稲野年恒に入門。恒富自身も小説挿絵の仕事に携わる。数回文展に出品から院展に活躍の舞台を移した。洋画を研究し、アール・ヌーヴォー風の退廃美の作品から「画壇の悪魔派」と呼ばれる。その後恒富独自の「はんなり」とした画風を確立した。大阪画壇の中心人物となり、島成園など女流画家の門人も多い。

     若葉の下でカメラを覗き込む若い芸妓。従来の美人画とは異なるモダンな題材である。芸妓の鹿の子絞りの着物、髪に差した簪の翡翠、若葉の緑で全体のトーンをまとめており、初夏のすがすがしさを伝えている。操作の難しい高級カメラに手を添えてそっと覗き込んでいる芸妓の様子がほほえましい。芸妓を上半身で切り画面上半分を若葉で覆い、俯瞰の視点で描いており、構図もまた非常に斬新である。女性を描くにも、単なる目鼻立ちの整った美人を描くというより女性の生命感や情趣を表すことを重視するという恒富ならではの着想がうかがえる。
  • 2026/01/05 03:00
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    上村松園(1875―1949) 京都市生まれ

    《序の舞》昭和11(1936)年

    京都府画学校に入学し、鈴木松年塾に入り、以後、幸野楳嶺、さらに竹内栖鳳の許で研鑚を積んだが、生涯一貫して美人画を描き続けた。円山・四条派を出発点としながら、平安時代に遡るやまと絵から浮世絵に至る古典をも研究し、伝統的日本画技法を遵守しつつ、格調高い人物画の創出に努めた。風俗に取材してはいても、品格ある深い芸術性をもつた完成度の高い制作を行い、独自の芸術を開拓した。その作風は線描主体の厳格な形態と計算された色彩美という特徴をもち、ときに新古典主義的とも称される。生前より評価は高く、昭和二十三年には女性として初めて文化勲章を受章している。

    松園の作品は、能に題材を求めた系列と母性を主題とした作品の二系統が中心です。「序の舞」は能の系列の代表作です。文部省招待展に出品され、完成度・格調ともに優れて世評高く、政府買い上げとなった作品で、現代の令嬢が謡曲を舞う姿を描いている。他の謡曲ものと異なり、特定の文学的主題に沿うのではなく、同時代の風俗をもって古格を有する作品を描いた点に、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願」(『青眉抄』)とした、松園作品の特質が典型的に現れているといえよう。作者自身が「優美なうちにも毅然として犯しがたい女性の気品をかいた」(同前)と自負しているように、松園芸術を代表する作といってよい。画面右下方に「松園」の署名と「松園女史」の朱文方印が捺されている。

    小説『序の舞』は、宮尾登美子が、女性日本画家・上村松園の生涯をモデルに描いた長編小説で、明治から昭和にかけて女流画家として、また一人の女性として激動の人生を歩んだ主人公・津也の愛と芸術、そして未婚の母としての苦悩と強さを描いた作品です。1984年には、名取裕子主演、中島貞夫監督で映画化もされました。

    事実、上村松園は最初の師である鈴木松年の後に、彼と犬猿の仲と云われた幸野楳嶺に師事し、更に竹内栖鳳にも師事した。鈴木松年は、松園の一人息子上村松篁の実父と云われている。未婚の母である松園が画業に専心できたのは松園を生涯支えた「母親」の存在が大きい。彼女のもう一つの題材である「母性」は「母親」に捧げられたものであろう。
  • 2026/01/05 03:36
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    橋口五葉(1881―1921) 鹿児島市生まれ

    《髪梳ける女》大正9(1920)年 新版画

    画家を志し上京し橋本雅邦に学ぶ。東縁の黒田清輝の勧めで東京美術学校西洋画科に入学し、主席で卒業する。夏目漱石の「吾輩ハ猫デアル」の装幀の他、泉鏡花、永井荷風、谷崎潤一郎などの装幀を手がける。三越などデパートのポスターの原画も描いた。

    新たな浮世絵木版画「新版画」運動に取り組む。浮世絵の研究を多数発表し、アール・ヌーヴォー風の表現を取り入れた物憂げな女性像を残した。ほかに新版画では、 美人画の伊東深水、役者絵の山村耕花、風景画の川瀬巴水と吉田博などが知られる。彼らの作品は日本国内だけでなく、ジャポニスム の熱気が残る欧米でも人気を博した。

    《 髪梳ける女》

    白い肌と黒髪の対比が際立つ。湯上がりの女性のさわやかさと色香をとらえた作品。
  • 2026/01/05 12:24
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    鏑木清方(1878―1972) 東京神田生まれ

    《築地明石町》昭和2(1927)年

    清方は1878年、東京・神田佐久間町に生まれ、13歳となる1891年(明治24年)7月、浮世絵師の系譜を引く水野年方に入門した。1893年(明治26年)に師の年方から「清方」の雅号を贈られた。この頃の清方は鷺流の狂言も学んでおり、同年には日本橋倶楽部で狂言師として初舞台も踏んでいる。17歳ころから清方の父親・採菊が経営していた「やまと新聞」に挿絵を描き始め、続いて「東北新聞」や「九州日報」などの地方新聞や諸雑誌などに挿絵を描き、十代にしてすでにプロの挿絵画家として活躍していた。清方は絵協に出典を重ねながら、「新著月刊」や「新小説」の口絵、人民新聞社や読売新聞社へ入社して挿絵を描いた。美人画や風俗画家としての活動も始めるが、1901年(明治34年)に泉鏡花と知り合い、その挿絵を描いたことや幼少時の環境からも終世、江戸情緒及び浮世絵の美とは離れることがなかった。。1927年(昭和2年)、第8回帝展に出品した代表作『築地明石町』は帝国美術院賞を受賞した。このころから大家としての評価が定まったが、清方はその後も「本絵」制作のかたわら挿絵画家としての活動も続けた。

    挿絵画家出身で、浮世絵の流れもくむ清方の画風は全体の画面構成などには浮世絵風の古風なところもあるが、人物の容貌だけでなく内面の心理まで描き尽くす描写には高い技量と近代性、芸術性が見られる。重要文化財指定の『三遊亭円朝像』(1930年・昭和5年)は、清方には珍しい壮年男性の肖像であるが、幼き日に父を通じて出会い、画家になるのを勧め、栃木方面に取材に連れ出したこともある恩人を敬愛を込めて描き上げた代表作の一つに数えられている。

    清方の門人は数多く明治30年に入門した門井掬水を筆頭に 、美人画の伊東深水などを擁した。

    「鏑木清方 築地明石町」とは、日本画家・鏑木清方の代表作で、明治の異国情緒あふれる東京・築地明石町を舞台に、秋の冷気に袖を合わせる粋な女性を描いた美人画です。1927年(昭和2年)発表、帝国美術院賞を受賞した記念碑的作品であり、長らく所在不明でしたが2019年に再発見され、東京国立近代美術館が収蔵、重要文化財に指定されています。

    上村松園の「品格」、鏑木清方の「いき」、美人画二大巨匠の名にふさわしい逸品。
  • 2026/01/05 13:36
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    菊池契月(1881―1950) 長野県中野市生まれ

    《少女》昭和7(1932)年 絹本着色 118.5✕145.5cm

    1879年(明治12年)11月14日、長野県下高井郡中野町(現在の中野市)で素封家の次男として生まれる。13歳で南画家・児玉果亭に入門、「契月」の画号を与えられる。やがて画家として立つことへの思いが止み難いものとなり、1896年(明治29年)、故郷を出奔、京都に出て南画家・内海吉堂に入門。吉堂は、契月に京都の日本画家・菊池芳文を紹介。翌1897年(明治30年)に、18歳でのその門下に加わった。

    菊池芳文は幸野楳嶺門下。同門の竹内栖鳳・谷口香嶠・都路華香とともに「門下の四天王」とも呼ばれた、京都画壇正統の四条派の画法を会得していた画家である。彼のもとで研鑽を積み、展覧会で毎年受賞を重ね、1906年(明治39年)27歳で芳文の娘・アキと結婚、菊池家の婿養子となり、以後菊池姓を名乗った。

    1918年(大正7年)に師であり、義父でもある芳文が死去すると、師の後継者として「菊池塾」の主宰者となり、同年には絵画専門学校の教授、さらに文展の審査員にも就任した。1922年(大正11年)、ヨーロッパへの視察出張に派遣された。1年ほどに及んだ欧州滞在の間、フランス、イタリアを中心に各地を訪問、特にルネサンス期のフレスコ画や肖像画に深い感銘を受け、チマブーエやジョットのいくつもの作品を模写した。

    昭和に入るころから均一でクールな線と抑制された控えめな色彩による白描画風の諸作が生み出されるようになる。

    《少女》昭和7(1932)年 
    まず目を惹くのは、少女の白い顔、白い手指と足指。
    瞳はこちらを見ているようでもあり、意識していないようでもあります。 小さな口は、嬉しいのか哀しいのか表情を窺う事はできません。長い髪はまろみをおびた背に沿って流れ、帯にせき止められています。
    長い腕が伸び、袖からは、しなやかな美しい手指。裾からは、掌にしっくり包めそうな形のよい足指。
    淡い色の着物は普段着でしょうか。一対の小鳥や花、貝の柄が描かれています。
    それは、「少女」が生身の肉体を感じさせない。
    見る者で表情が変わる能面のような顔、節の無いしなやかでふっくりした手足は、むしろ仏画の菩薩を感じさせます。

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